2005年4月2日土曜日

先輩の声(社会人編 平成17年)

金蘭千里高等学校中学校を卒業し、実社会の各方面で活躍している先輩から、在校生そして未来の金蘭千里生へ2005年に送っていただいた、激励の言葉を紹介します。(リニューアル前のホームページに掲載されていたものです)

激励のお言葉を下さった先輩方

船越健裕氏からのメッセージ

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皆さん、こんにちわ。第17期卒業生の船越健裕と申します。金蘭千里学園創設と新校舎の完成おめでとうございます。私の中学3年生の時の担任でいらっしゃった辻本理事長・校長先生にご依頼いただきましたので、僭越ですが、在校生の皆様に一言メッセージをお送りしたいと思います。
私が卒業してから、早いものでもう20年の月日が立ちました。時には20分テストの勉強をしながら、また、サッカー部に所属していた私は、時には坂道を走りながら、北摂の美しい学舎に通った日々が、昨日のように感じます。
私は、大学を卒業後、外務省に入省し、これまで主に日米関係や、安全保障政策の仕事に携わってきました。そして、昨年の夏には、アメリカの首都ワシントンでの3年間の勤務を終え、帰国しました。私のこれまで16年間の外務省での仕事の中でも、金蘭千里で学んだことは、大いに役に立ってきました。
第一に、私に、国際政治に携わる仕事がしたい、日本と外国との関係を扱う仕事がしたいという動機を与えてくれたのは、辻本先生の政治経済の授業でした。皆さんも、日々の授業の中で、心が動く分野があれば、きっと将来の仕事を選ぶうえでの大きなヒントになると思います。
第二に、英語です。金蘭千里は英語教育を重視しています。日本の繁栄は、国際社会とのよい関係があってこそです。また、英語は国際語として、皆さんのこれからの人生の幅を大いに広げるでしょう。私は大学ではあまり英語を勉強しませんでした。このことはあとで後悔するのですが、外務省に入ってすぐアメリカのプリンストン大学に留学し、初めて外国で暮らした時に、私を支えてくれたのは金蘭千里の英語だったのです。
第三に、金蘭千里で、学ぶという習慣をつけていただいたことは、私の人生において貴重なことでした。金蘭千里のカリキュラムは、他校よりも厳しいものでしょう。しかし、それによって学んだことは、それだけ皆さんの血となり肉となっていくのです。私が留学したプリンストン大学のカリキュラムもそれは厳しいものでした。しかし、厳しいカリキュラムは後で、皆さんの大きな自信となると思います。
最後に、私が金蘭千里で得た最も大切なものは友達です。私の結婚式の際にも、多くの友人が来てくれたし、アメリカ留学中に遊びにきてくれた友人もいました。また、医療の面で助けてくれた友人もいたし、卒業後20年を経て東京で一緒に飲む友人もいます。
皆さんが、金蘭千里で充実した毎日を送られることを期待しています。
外務省大臣官房総務課主席事務官
船越健裕

町田徹氏からのメッセージ

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あなたは、将来に夢を持っていますか?まさか、しらけてはいないでしょうね。若い人の可能性は無限大です。小泉純一郎氏のような内閣総理大臣だって、堀江貴文氏のような起業家だって、あるいは、シュバイツアーのような医者だって、何にでもなりたいと思い、目指す権利を、あなたは持っているのです。そして、今、あなたが優秀な生徒の集まる金蘭千里に在籍しており、切磋琢磨する機会に恵まれているということは、同世代の人たちの中で大変なアドバンテージだということをよく自覚して下さい。このアドバンテージを活かさない手はないのです。
偉そうなことを言っている私は、経済ジャーナリスト&ノンフィクション作家の町田徹(まちだてつ)と言います。1978年に卒業した11期生です。新聞のワシントン特派員をしていた頃は、ホワイトハウス記者クラブに所属し、クリントン前アメリカ大統領を夕食会に招いたこともあります。中曽根、橋本、小渕といった歴代首相に取材したこともあるし、竹中平蔵さんは学者時代に彼の米通信政策の誤った理解を直接訂正してさしあげたことだってあります。昨年からは独立して、フリーランスで活動しており、今月(2005年11月)は、2冊目の単行本『日本郵政 解き放たれた巨人』(日本経済新聞社刊)を上梓します。
ですが、金蘭時代の私は、金蘭の基準で言えば、文句なく、大変な劣等生でした。生まれつき、私は天邪鬼(あまのじゃく)なのです。一生懸命勉強することを「ガリ勉」と言いますが、私から見れば、金蘭の同級生の多くは「ガリ勉」でした。当時の私の基準で言えば、ガリ勉はとても格好の悪いことであり、私は、そんな格好の悪いことはしたくないと思っていました。逆に、学業以外のことにばかり精を出した時期がありました。しかし、こんなことをしていては、成績が下がるのは当たり前で、20分テストでクラスのワースト5に入り、サッカーの部活への参加を禁じられたこともありました。
ただ、そんな私ですが、将来に漠然とした夢を持っていました。ジャーナリストになりたいという夢です。きっかけになったのは、私が中学・高校の頃の二人のジャーナリストの活躍です。一人は、立花隆さんという人で、田中角栄首相(当時)の不透明な金脈問題を暴き退陣に追い込みました。もう一人は、ボブ・ウッドワードというワシントンポストの著名記者で、ニクソン大統領(同)の不正な選挙工作を白日の下にさらし、この大統領を辞任に追い込んだのです。天邪鬼な私は、国家権力というのも漠然と好きでなかったから、いつか二人のように、権力と戦うジャーナリストになりたいと思ったのでした。
ジャーナリストというのは、ファクツを掘り起こし、それを新聞、雑誌、テレビなどでリポートすることによって、人々に感動を与えたり、警鐘を鳴らしたりする仕事です。新聞記者時代から通算で22年も、この仕事をしていますが、いつも、やりがいを感じています。まったく後悔はありません。もちろん、人生は仕事だけではありません。ですが、兎に角、子供の頃に描いた夢を実現できて、張り合いのある毎日を送れているわけです。
そこで、あなたです。もし、あなたがまだ将来の夢を見つけていないならば、できるだけ早くそれを見つけて下さい。そして、夢を実現するために、どういう大学へ進み、どのようなことを学べばよいかという判断材料を集めて下さい。学校の勉強だけでなく、日々のニュースや身の回りのことに関心を払っていれば、そういう夢は必ず見つかります。はじめは、「格好がいい」とか「やってみたい」という程度の興味からスタートして一向に構いません。私もそうでした。夢が見えてきたら、不要な挫折を避けるために努力しましょう。それが受験勉強であっても、もう決して「ガリ勉」が格好悪いなどと思わなくなるはずです。
もし挫折しても、落ち込むことはありません。最初の夢を貫徹してもいいし、別の生き方を模索してもいいし、「やり直すのに遅いということはない」というのが人生だと私は思います。
かくいう私も挫折の連続でした。大学進学では、浪人したうえに、第一志望校には行けませんでした。大学4年の夏に交通事故に遭い、就職浪人も余儀なくされました。ですが、倍率200倍を超す新聞社の試験にはパスしたし、前述のように、記者の花形ポジションのワシントン駐在もやれたわけです。
金蘭千里の劣等生仲間たちも皆、たくましく挫折や人生の転機を乗り越えています。親の病気で進学をいったん断念して組立工をやりながら夜学を出て外資系のガス・タービン会社でエンジニアとしてバリバリやっている人、大学卒業時に司法試験を断念して大手の生命保険会社のエリート社員になった人、国立大学の農学部を卒業してから医学部に入りなおした人、親のコネで就職した会社が嫌になって米国で経営学修士(MBA)を取って転職した人、両親と兄が医者という家庭に育ちながら放送局に就職した人…。
彼らみんなが口を揃えるのは、夢を持ち、それに向かって努力することの大切さです。仮に、その夢を捨てて、転進する時も、努力した経験は必ず役立つものです。
高校2年生を対象とした先月の講演でも、私は、こういう趣旨の話をさせていただきました。高2生はもちろん、それ以外の学年の方も、私に聞きたいこと、相談したいことがあったら、電子メールを送って下さい。私のホームページ(http://www.tetsu-machida.com/)にメールのリンクがあります。
最後にもう一度、高2生に申し上げた言葉を、申し上げます。
「少年よ、大志を抱け」―。
有名なクラーク博士が言ったように、あなたも大志を持って、人生にチャレンジして下さい。

山本光昭氏からのメッセージ

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1978年、第11期卒業生の山本光昭と申します。今日は、「私の歩んできた道」をお話ししたいと思います。
私は、中学高校時代、阪急電車で通学していたこともあり、ターミナル駅における百貨店経営や大規模劇場による演劇の大衆化など阪急の展開してきた経営哲学を勉強したり、城山三郎の「官僚たちの夏」や堺屋太一の「油断!」などを愛読したり、社会・経済の分野に強い関心がありました。そのため、進路として、文科系を選ぶべきだったかもしれませんが、実家が開業医で、当時は、医者の子が医学部に進まないと、「行かない」のではなく「行けなかった」と言われた時代であり、そう言われるのが癪に障るといった子ども的な感覚で、理科系のクラスに入り、医学部に進学することにしました。
さて、医学部医学科の学生時代ですが、解剖学や生化学等の基礎医学、内科学や外科学等の臨床医学、公衆衛生学や法医学等の社会医学など、すべてが必修であり、卒業後、国家試験に合格して、医師免許を得てから、専門を選び、さらに研鑽を積んでいくという養成方法になっています。(注:現在は、医師免許を得てから、さらに2年の臨床研修を経たのち専門を選びます。)大学入学前に専門を選ぶ、他の学部・学科と大きく異なるところです。
私は、中学高校時代から興味をもっていた社会・経済と医学・医療とを橋渡しする社会医学を将来専攻したいと思い、医学生時代には、最近テレビドラマでも有名な監察医の検視の同行や行政解剖等の補助など社会医学の一分野である法医学教室に出入りをしていましたが、最終的には生きている人を相手にする分野を選びたいと考え、公衆衛生学に進むことに決めました。しかしながら、当時出身大学の公衆衛生学教室では、人へのアプローチではなく、ラットやマウスを使った動物実験を中心にしており、人の健康に直接貢献する分野を専攻したいと考え、健康づくり活動の実践を行っている公衆衛生行政を専攻することにしました。
ところで、おそらく、皆さんが思い浮かべるお医者さんは、病院や診療所で患者さんを診ている人だと思います。これは、当然なことです。なぜならば、医師免許を取得している約95パーセントの人が病院や診療所等の医療施設に勤務しているからです。私が、選んだ分野は、医師が選ぶ専門分野のなかでは、大変珍しい分野です。
何故、役所にお医者さんが必要だと思いますか?例えば、テレビや新聞などで鳥インフルエンザ、ノロウイルス、SARSなど感染症のニュースをよく見かけると思いますが、感染症の蔓延を防ぐには、患者の隔離や消毒措置など行政としての対応が必要となり、その際に最新の科学的知見に基づく判断が必須であり、医師の役人(医系技官)が全面的に対応しています。また、社会保険診療報酬の改定など保健医療制度の見直しにあたっては、医学医術の進歩をはじめとする医療現場における動きに対する的確かつ迅速な対応が求められており、医系技官が必要とされています。
公衆衛生行政に進もうと決めたとき、まずは、地域社会における公衆衛生活動を担う地元の兵庫県庁に入ろうと考え、県庁を訪ねていったところ、当時の県庁の部長は旧厚生省からの人事交流で来ている医師の役人で、次のような助言を受けました。「将来関西が良いということで、国から県庁に移籍するのは、比較的簡単にできる。若いときは、大海を知らずして、井の中の蛙になっては駄目だ。まずは、厚生省に入りなさい。」というものでした。人との出会いは大変重要なものですが、今から思うと、このアドバイスにより、関西を離れ、東京へ行ったことは、仕事をはじめ、文化や歴史、自然、食生活など視野が大幅に広がり、大変良かったと思っています。
さて、旧厚生省に入省し、人事で、旧厚生省の各部局に加え、横浜市役所、広島県庁、茨城県庁、東京検疫所、旧環境庁、内閣府と勤務してきました。国レベルの仕事では、阪神・淡路大震を契機としたわが国の新たな災害医療体制の構築や第三者機関の創設による医療機能評価体制の構築などを担当したり、県レベルの仕事では、全国に先駆けて、エイズ日曜検査の実施や6424(64歳で24本の歯を残そう)歯の健康づくり運動の展開などを進めたり、国レベルの施策の企画立案・実施、あるいは全国初という県レベルの仕事を担い、遣り甲斐を感じてきました。
一方、若い頃、例えば、横浜市役所では、保健所という地域における第一線機関で集団予防接種や健康診査などの診療業務に明け暮れ、旧環境庁では水俣病という公害病の訴訟業務に忙殺され、こんなことをするために、公衆衛生行政を選んだのではないと思うことがしばしばありました。しかしながら、県庁で、若くして、課長や部長という管理職に就いたとき、周囲からは若造のくせにと見られがちですが、現場や実務を経験していたことにより、具体的な指示や判断をくだす際に、大変役立ちました。様々な現場や実務経験は、何事も、無駄にはならないと感じています。
医師の活躍分野には、一人一人の患者の命を救うという臨床医としての喜び、新たな知見を発見するという研究者としての醍醐味など、それぞれの面白さや遣り甲斐があります。私が感じている厚生労働省医系技官という仕事の魅力は、①多くの人の健康福祉の向上に貢献出来ること、②担当した分野について若い時から最高権威と対等の関係で仕事が出来るということ、③担当した仕事が自分の異動後も組織的に継続され発展していくことなどです。
むすびに、皆さんに、将来の道を選ぶにあたって、伝えたい私からのメッセージは、①人との出会いを大切にすること、②好きなことを見つけること、③世の中に流されないことです。
中学高校時代の恩師との出会いをはじめ、大学生、さらに社会人になると、人との出会いは、飛躍的に増えていきます。自分の進路の選択や担当している仕事の判断の際にも、人との出会いは大きな影響をもちますし、尊敬できる人との出会い・交流は、生涯の財産となりますので、人との出会いは大切にしてください。
好きなことを見つけることにより、自分が納得できる人生を目ざせます。それぞれの時代時代で人気がある企業に入社したり、流行の学問分野に進んだりしても、その企業や学問分野が30年、40年と魅力を持ち続けることは必ずしも容易なことではありません。自分が納得できる人生を生きるためには、その仕事や学問分野が「好き」であることが重要だと思います。
世の中に流されないというのは、自分の考えをしっかり持つことです。グローバル化が進展するなかで、世界標準に向けた社会システムの変革が進み、そのため企業や大学といった組織も変貌するとともに、価値観も大きく変化していきます。そのようななかで、重要なのは、幅広い視野で情報を収集し、判断していくことができる力を身につけ、世の中に流されないことです。
皆さんが夢をもち、地域社会、日本、そして世界の人々の幸せに貢献し、活躍することを心から期待して、私からのメッセージといたします。

山田恵資氏からのメッセージ

私は10期生の山田恵資(やまだ・けいすけ)です。2007年2月26日、母校で2年生の皆さんを前に講演をする機会をいただきました。1977年に高校を卒業して以来、初めての母校訪問だったので本当になつかしく思いました。
 「延々と自分史のような話しをしてもらっても、生徒には絶対に受けません。生々しい体験談をしてやってほしい」。事前に進路指導の勝部正人先生からはそのよう なご忠告をいただいていたこともあり、自分の経歴や自慢話めいたことは極力避け(と言っても威張れるような自慢話はありませんが)、記者としての体験談を中心に お話ししました。ただ、50分間という制約の中では、実際に話し切れなかったこと もありました。そこでこの場をお借りし、講演の補足も兼ねて後輩の皆さんにメッ セージをお送りします。
◇金蘭時代の2つの光景
 それは、私が中学3年時の社会科の授業でした。黒板に先生は次のような文章を記されました。
 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は…」
 平和主義をうたった憲法9条の1項と2項の条文です。そして、先生はわたしたち生徒に向かって、こう問いかけられたのでした。「君らはこれ読んで、自衛隊は憲法 違反と思うか、合憲と思うか。どっちや。手を挙げてくれ」。私は躊躇せず、「憲法 違反」の方に挙手しました。今もその光景を非常によく覚えています。理由は「学校や家族といった身の回りの狭い社会のことだけでなく、国や世の中のことにもしっか りと目を向けなければいけない」と初めて自覚した瞬間だったからです。その先生は、現在校長の辻本賢先生でした。
 高校2年時には、こんなこともありました。倫理社会で授業で、ある女性の先生が、元首相の田中角栄氏が逮捕されたロッキード事件という「戦後最大のスキャンダ ル」に絡み、国会で証人喚問を受けた黒幕たちについて、どう思うかを書いて提出す るよう指示されました。
 これに対し私は「事件はとても暗い話だが、政治の裏の黒幕のような人が表に出て きて、良かった」といったことを書きました。すると、日ごろはめったに人を誉めな いその先生が珍しく「なかなか良い回答ですね」と評価してくださいました。  私自身も、もともと学校ではあまり誉められたことが無かったのですが、そのとき はちょっと誇らしい気持ちになったものでした。それはともかく、ここで紹介した2つのエピソードは、私が記者という職業を選ぶ上での原点となりました。  皆さんからは、「何のこっちゃそれは」と言われそうです。何といっても当面の関 心事はまず受験勉強でしょうから。ただ、50歳近くなった私が今、金蘭での学校生 活について思い出すことのほとんどは、受験とは直接関係のない出来事なのです。も ちろん、個人差はあるでしょうが、今はそれほど大したことではないと思える場面が、将来には大きな影響を与えるかもしれないということは、ぜひ覚えて置いてくだ さい。
◇「自分の意見」と「他者の視点」
 私は大学を卒業して以来、25年間、記者稼業を続けています。主として取材対象は日本の政治です。私としては、記者という職業を選んで本当に良かったと思ってい ます。自分で取材し、事実を報じる。あるいは、自分の考えを書く…。記者の日常の仕事は地味なものですが、それは日々、歴史を記す作業でもあるのです。
 そこで重要なことは批判精神です。つまり、世の中で起きている、一見当たり前に見えることに、疑問を持つということです。それは、自分自身で考え、しっかりとし た意見を持ち、それを表現したり、主張したりするためです。よく「事なかれ主義」に凝り固まって、自身の意見を持とうとせず、ただ流されているだけのような人がい ます。多分、世の中にはそういう人も必要なんでしょうが、数が多くなりすぎると、やはり問題です。
 それから、次に私が重要と考えるのは、自分自身や、自分が所属したり関わったり している組織・集団を客観的に見る目です。「他者の視点」で自らを省みることと言い換えても良いでしょう。言うまでも無く、完全に自分を客観化するのは絶対に不可 能です。しかし、「相手の立場から見て、自分の行動や言動がどう受け取られている か」を考えようとする姿勢は常に必要でしょう。
◇英語のこと
 英語についても触れます。時々、わたしも英語の大学入試問題を解いてみます。 30年前と同様、現実にそれほど使わない英語、いわゆる「受験英語」というものは相変わらず少なくないようです。しかし、だからと言って、受験英語と実用英語を分けて考えすぎるのも間違っています。というのは非英語圏である日本にいる限り、余ほど環境に恵まれない限り、体系立てて英語の文法を覚える努力をしなければ、しっ かりした英語力は身に着かないからです
。  私は、米国勤務時代に長女が通っていたミドル・スクール(中学)の英語の先生か ら、「日本語で書かれた英語の文法書を取り寄せて、勉強させてほしい」とアドバイ スを受けました。私たちの家族は1997年夏に渡米したのですが、当時長女は中学 1年。英語を習いたてで、英語の基礎もほとんど分かっていませんでした。まだ、 13歳そこそこと言っても、一つの言語を日常生活だけでモノにするには既に「若い」とは言えない年齢です。
 となれば、英語の文法を日本語という母語(=母国語というのは正確ではない)の手を借りて学習する必要があるということです。その後、長女はずっと米国に残り、 大学を卒業。そのまま、大学院に上がりました。
 ところで私の大学時代の英語の先生である國弘正雄先生は、外国語学習にとって大 事なのは「只管(ひたすら)音読」することである、とずっと以前から提唱されてい ます。中学の英語の教科書を何度も何度も音読して、英語の語調を頭に叩き込むとい うことです。歌と同じですね。國弘先生は「同時通訳の草分け」の一人で、皆さんの ご両親の世代ならその名前をご存知の方は多いはずです。その國弘先生と昨年、久し ぶりにお会いしました。先生は70歳代の後半に入ってますますお元気でしたが、日 本の英語教育の現場についてこう嘆いておられました。「英語は流暢にしゃべること よりも、まず中身が大事だ。たまに英語サークルをのぞくが、その話している内容が あまりに貧弱だ」。
 かく言う私も「英語学習者の端くれ」を自任し、通勤の際には英語の書物を読むよ うにしています。もちろん出来るだけ音読も続けています。その甲斐あってか、米国から帰国して6年近くが経過しますが、英語力は帰国直前よりも向上しているようで す。
◇外国を体験しよう
 これからの時代はますます日本だけでなく、世界を相手にする必要があるでしょ う。従って、皆さんが晴れて日本の大学に入学しても、それだけで満足しているわけ には行きません。特に若いうちに外国を体験することは大切です。金蘭千里高校では10年前から、、夏休みにイギリスのパブリックスクールで過ごすプログラムがあり ますが、貴重な体験をする絶好の機会ですね。 言葉はもちろん、文化、風習、習 慣、社会的なルールが大きく異なる外国に行くと、とても大きなショックを受けるか もしれません。まだ、日本しか知らない人は、イギリスに限らず、米国でも中国で も、エジプトでもタンザニアでもどこでも一度、早いうちに外国に行ってみてはいか がでしょうか。そこで自分の価値観と違う社会を体験すれば、きっと大きな糧になる と思います。 
 私自身も大学4年の時にフィリピンの首都マニラで一年間、留学生活を送りまし た。当時、フィリピンはマルコス大統領の独裁政権下にあり、新聞、テレビの言論活 動は厳しく統制されていました。ある日、通っていた大学の教授がマルコス批判の論 文を書いたことを理由に突然、警察に逮捕されました。これは「言論の自由」とは何かを考えさせてくれました。その時の緊迫感は今もリアルによみがえります。
 夢をしっかり持ちつつ、現実も直視する―。皆さんのこれからの人生では、夢と現 実の狭間にあって、どの辺で折り合いを着けるのか、それとも妥協せずに頑張るか に、しばしば悩むことになるでしょう。夢だけを追い掛けていてもなかなか、現実が ついて来ない。一方で、現実に振り回されるだけですっかり夢を無くしてしまうの は、もったいないことです。いずれにせよ、くれぐれも思いつめ過ぎないようにして ください。私の場合は阪神タイガースの応援や吉本新喜劇、落語といったお笑い系、ウォーキングなどで気を紛らわせます。
 私の亡くなった父親は化学者でしたが、「新しいアイデアは実験器具を洗っている最中に急にひらめくことがある」とよく言っていました。私も自宅で原稿を書いてい て行き詰まったときは、散歩に出かけます。すると突然、新しい発想が出てくること があります。
 さて長くなりました。今回はこれで終わります。私は「年を取っても、古い考えに とらわれず、柔軟な発想を忘れず、同時に批判精神を大いに磨きたい」と考えていま す。そのためにも、いつの日か、社会に出て活躍する皆さんから、いろいろなお話し が聞ける日を楽しみにしています。では、また。
 山田恵資 1958年6月生まれ。71年から6年間、金蘭千里中学・高校に在 学。77年上智大学文学部に入学。82年時事通信社入社。福岡、大阪での勤務を経て、91年から政治部に在籍。4年間のワシントン支局勤務の後、政治部デスク。現 在は解説委員。